でっぱっているところと、ひっこんでいるところ

さけるチーズが旨いので、さいて食べる。
ついでにビールも飲む。
HDDの中身を整理したり、CMカットをしたりする。
松屋の牛丼が250円になっていた。特に話題になってないような。
カウンターの向こう側に、とても神経質そうな老人が座っていて、牛丼の食券を手渡した後、お茶を2杯要求した。
それらを受け取り、次にお水のお代わりを求め、氷が入っていないと注意し、コップひとつと湯のみ2つを均等に並べだした。
自分の好みの位置に並べ終えると、ドレッシングやら箸入れやらの位置を正し始めた。ようやくお気に入りの位置に配置できるや否や、牛丼が運ばれてき、それを受け取ると紙ナプキンで丼を丁寧に拭きだした。だがまだ味噌汁が来ていない。
それに不満を覚えたように店員をじろりと睨み付け、とうとう味噌汁がやってくるとそのお椀に対しても同様に紙ナプキンで拭く動作を実行した。
拭き終わると、箸入れから箸を取り出し、眼前に均等に並べたコップと湯のみに箸を5分の1ほど突っ込みしゃしゃっとかき混ぜる作業を3回実施する。
いったん箸をお椀に置き、紅生姜入れの蓋を持ち上げ、箸入れの上に蓋を置き、中に入っている紅生姜を1回、2回、3回、4回、5回と丼に入れていき、満足したように蓋を戻し、箸を再び手に取る。
箸を持った手は、もう一度しゃしゃっとかき混ぜる作業を繰り返し、牛丼を食べるのかと思いきや、紅生姜をつまみ上げ口に運び咀嚼する。それを2回。
そののち牛肉をつまみ上げ、白米と一緒ではなく、牛肉の薄いスライスを一枚咀嚼する。
再びかき混ぜる動作があり、その一連の動きに味噌汁をかき混ぜる行為が付け加えられる。
しかし味噌汁は飲まないし、手も触れない。
それらの行為からその人の生き様が、命の火の瞬きが見えるようだ。
我々は生きている。だがどうしようもなく隔たっている。
彼岸を思うとき、わたしたちに残された道は、途方に暮れることだけだ。