社会への、帰属感とか

内田師匠の話とか、読んでて思ったこと。
結局のところ、社会へのコネクトの実感が持てていないことが、それが小学校・中学校・高校・大学・大学院という学ぶ場で起きていることが、まあ、現在を作っているのではないかと。うーん、言い換えただけだけど。
戦争を知らない世代としてすごーく浅い認識で書くのだけれども、まあ仮に戦争のときの学生って今よりも社会への帰属感だったり一構成員である自覚だったりが、国のため、國体護持ーっつう目的のため、という理由によって持てていたのかなあ、なんて思ったりしてみたり。状況がそうさせている、ということなんだろうけど。
ツイッターで、apjの人が、学生に向けた言葉で、「社会のために勉強しろ」というのをつぶやいていて、おお、これは、と思った。リツイートしとけば良かったなあ。
自分のために勉強、できないっす、もう、おそらく。
フラカンの、生きていて良かったー、の夜は、多分、どこまでこの世界に影響を与えられたかってところが、クリティカルなんじゃね、と思ったりもするんす。世界は狭くても、広くても。できれば良いものが、と思うけど、みんなの良いは違うけど。
でもなー、多分、いろんな反動なんだろうなあー。
時代は繰り返してるんだろうなー。ファシズムは勘弁だけど。
60−70年前の揺り返し?
バランスとりつつあるのか、それとも。尖閣のこともあるし。
結婚とかすると、その帰属感がフックになって、変わっていくこともあるんかもね。
まあ、どしどし結婚すべしと思いますが。自分のことって、自分のことだから棚に上げられていいよね。
長くなりますが、オタク論ですけども。
昔の、オタク的な人々って、完全な予想ですけど、村社会への帰属感イデオロギーで、マッチポンプしていけてたんかな、なんて。
お前の知らない面白いことを、オレは知っている。
(だからオレは、お前よりエライ。)
今、その村は入村者が多すぎて、一人当たりのイデオロギーの熱風がぬるくなっているのかもしれないですね。と、他人事のように書く。
ああ、PLANETSで言うところの、吹き上がりみたいな文章を書いてしまったなあ。
言いたいことがある人は、言えば良いと思うけど。