カウンターカルチャーとしてのヤンキーについて、考える

略してCCYK。
まず、考えるに当たって、ヤンキーの定義を決めよう。
仲間意識、派手な外見、相容れない団体への攻撃姿勢、浜崎あゆみ、トランス、クルマに金をかける、黒い、筋肉をつけようとする、結婚が早い、携帯電話を良く使う、など。
それに対するCCこと、カウンターカルチャーとしてのオタクの特徴は、その逆について言及すれば良い、ということにならないか。
単独行動、地味な服・髪型、他者への影響力は極力少なくする、田村ゆかり、アニソン、DVDとマンガとCDに金をかける、白い、筋肉は特に必要ない、結婚できない、携帯電話は基本使用料のみ、など。
考えるということは、結論を出すということだ。
そして、人間は、自分のことはわからないが、他人についてはわかっている気がする、動物だ。
それらを加味して今回の文章は、何を言いたかったのか。
ヤンキーについて考えると、その鏡面としての自分が見えてくる、ということだ。
逆にヤンキーであるあなたは、オタクについて考えてみれば、自分についてわかることがあるだろう。
そして、おそらく、両者の根っこは同じだ。
その心の隙間を何で埋めようとしたか、その選択如何で、あなたがたは分かたれてしまった。スポイルされた自我@村上春樹を、どう取り繕ってきたのか。
その結果が、あなたであり、わたしであり、その他大勢である。
時代という大きな流れは、絶え間ない揺り返しの連続でできている。
かつてのヤンキー文化の揺り返しで、現代のオタク文化へのリソース分配が起き、またその揺り返しでヤンキーたちが目を覚まし始めるだろう。
我々はつねに、波間に浮かぶ浮き輪のように、揺られ続けているしかない。
そして、鏡を見る以外に自分を知る方法は、他人と何かを交換し続けるしかない、ということだ。