出張帰り、自宅にて

時差ぼけで眠れないので、更新します。
ドイツに行ってきました。
よく考えたら、海外滞在日数最長国はドイツです。
5月のドイツは、とても過ごしやすい。
日が長くて、9時くらいまで明るい。
なのでドイツの方々は外に出てビールをぐびぐび飲んでいました。
ビールうまい。16歳から飲めるらしいですよ、ビール。
アルコール度数が低いから。
あと、名前を忘れてしまったのですが、シロッコだったか、、、シナップスだ!
を、よく飲むらしく、ドイツ人たちは、消毒と称して、インターバル的に飲むらしいですよ。なんなんだ、飲んでばっかりじゃねえか。
あと、ドイツ人もチェコ人もよくしゃべります。
つねに何か言葉を発しています。よくそんなに会話が続くなあと思いますが、それって結構面白いなあと思ったり。
たぶん、会話の中身なんてゼロに等しいのでしょうが、常にボールを投げ合っているというか、まあキャッチボールはしているわけじゃないですか。
その球速が、いかにゆるゆるで、ゼロに近いものであったとしても、ボールを投げてはいる。日本人の、ある一部の人たちは、無駄なことはしゃべらない傾向にありますが、そのときに思い出すのは、日本刀の居合い抜き的なイメージなんです。
その一瞬にかける、的な。それってストイックであり、かつリスキーですよね。相手がどう出てくるかその瞬間にしかわからないし。
それが悪いわけではないのですが、国民性というか民族性というか、そういうのを感じるんです。あと、島国であるがゆえの、閉塞・密閉感。
ヨーロッパ行くとたいていハローと声を交わしてくれる。
それはもう見境なく。なんでなのか、その本当の理由なんてわかるわけないのですが、人種の流動性であったり、他国・他民族が簡単に入ってこられる状況下において、コミュニケーションのハードルを如何に下げるか、その課題を常に迫られている場合と、そうでない場合とで、ファーストコンタクトの方法が、異なってくるということはありえる話ではないかと思ったりもします。
それは時間の流れにも影響しているようで、やはり日本にいるときよりも、時間の流れは緩やかであるように感じていました。
飛行機で、阿部公房『砂の女』と平川克美『ビジネスに「戦略」なんていらない』を読んだのですが、この旅にとっての象徴といいますか、リンクしていて面白かったです。
後付でどうとでも解釈できるのでしょうが。
砂の女』、解釈次第でどうとでも読み解ける寓話的な話で、日本的・土着的なメンタリティがとてもよく書けていると感じました。
コミュニケーションという文脈で読み解くと、人間心理としての束縛感への願望とその矛盾みたいな部分で、現代に照らし合わせてみたりすると、コイツはリア充のカテゴリに入れられるのではないか、と想像してみたりして面白かったです。
自由が幸せを全て担保してくれているわけじゃないし、選択肢の拡大が全てを解決するわけでもない。
ビジネス〜のほうは、如何に仕事を肯定的に捕らえなおすかー、という点で、正直文章に躓きやすく、なかなかスルスルとは読めなかったですが、この本が言いたいことの1割くらいは理解できたような気がするのですが、あとの9割を理解できないと、ちゃんとした人間になれないのじゃないか、と思ったりもします。
内田師匠がよく言っているのですが、仕事を通じて成長せねばなりません、と。
そのためには、仕事=コミュニケーションを如何に効率よくしていきますか、と。
そしてそこには、どれだけのブラスのオーバーアチープがありますか、と。
どうだろう、善意の仕事を目指しているのだけれども、身体が動かない、部屋で仕事ができない、という状況にありますが、それでも何とか生きてていいですかね。
という疑問に対して、日本にいると、働かざるもの食うべからずという空気・無言のプレッシャーによって、酸素濃度がぐっと薄くなるのですが、その点ドイツだと、家族やコミュニティを大切にしていれば、なんとかなるような空気があって、それがある種の開放感につながっているのかなあ、と思ったりもしました。息苦しくない。
まあ、こうして息苦しさを感じている理由は、自分が駄目人間であるからなのだろうけれども。
ああ、うまく言えないけど、肯定感というのかなあ。そういうのが、ほしいんじゃないかなあ。日本全体として。いや、あるとこにはあるんだろうけど。
内田師匠言うところの、祝祭感・言祝ぐ感じ。
そういうの、目指して生きたいっすね。