よしもとよしともといましろたかしと、チェルフィッチュ

並べてみる。
チェルフィッチュ『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を観劇。
面白かった。
相変わらず小道具などはなく、背景も白一色。時計がある。
SuperDeluxで『フリータイム』も観たのですが、それとも感触の違う演劇でした。
言葉と、役者がいるだけ、という感じ。
岡田さんは「受精」というキーワードで今回のやりたかったことを書いていますが、受精というか咀嚼、のほうがしっくりくるように思った。
テキストを役者が料理して咀嚼してから観客に差し出すのではなくて、役者は素材のままで観客に渡す、もしくは最低限の料理しかせずにいて、観客側が噛み砕いて咀嚼して嚥下しなくてはいけない、というようなイメージ。
我々観客は役者を観ているのだけれども、彼ら彼女らの語る言葉によって、否応なしにある風景なりのイメージを喚起させられてしまう、というもの。
そうすることで、役者は役者ではなく、スクリーンとなって観客の想像を受け止めるような存在になってしまう。
というようなことを考える。
即興性については、初見なので、やはりそこまで分からなかったというのが正直なところ。
あのシーンがそうなのかな、という憶測を後からしたぐらいです。
とても面白いものを観たな、と自分は楽しくなったのですが、一緒に行った女性は前半寝てました。やっぱりいきなりは無理なんかな。
宮本亜門さんがいました。
物販でコンセクションを買って読んだときに思ったのですが、岡田さんもやっぱりマスに訴えるにはどうしたら良いか、という問いを持っていて、それはいましろたかしが抱えるものに似ているのではなかろうか、と。
ワンピースみたいな演劇っていうと、どういうのかわからないけれども、それが絶対に良いわけではないだろうし、チェルフィッチュのように、新しい表現の可能性を探って行こうとする人たちがいて欲しいと思う。じゃあお前はどうなんだよ、はとりあえず置いておいて。
ましろを思い出したので、ついでによしもとよしともも思い出したから、タイトルとして面白いかなと思って並べてみました。
なんか空気似てませんか。
ひらがなだけの作者名の人って、そうなっちゃうみたいなのがあると面白いですね。
よしながふみ、とか。