断絶を、感ず

もしくはディスコミュニケーション
10月はとある発表があったので、その準備と個人的な頼まれごととで本当に時間がなかった。
とあるは観ていない。マンガがあまり好みではなかったから。
発表のための事前に書く文章だったり、発表資料だったりを作って、自分で確認して、ということを繰り返していると、だんだん本当は何が言いたかったことなのか、見失ってしまうことがある。
というか、一日たつとなんだかへんてこな文章に見えて仕方ない。
それで書き直すのだが、変な接木をするせいで、余計に悪くなる。
そうであれば、初めから書き直せばよいものを、時間がないという理由で、それをしないせいで、結局出来上がったものは、何かわからないものになる。
発表の資料や、そのときしゃべったことなども、自分がどれだけがんばってみても、結果的に、聴衆が求めていないものであるならば、それは失敗でしかない。
ウィキペディアで検索すれば出てくるようなものを発表しても意味がない、ということはそれを発表している私には意味がないということだ。
つまり、不必要であり、不要なのだ。
それについて、いろいろと考えてみるに、そんなことしか題材として選択し得なかった私という人間についての、生き方、そのものに対しての挑戦であり宣戦布告であると。
ああ、そうかと。
であるならば、翻って、私がやっている仕事というのは何なのか。
おそらく、その人から見れば、毎日毎日、誰でもできるようなルーチンワークをちんたらちんたらやっているように見えるのだろう。
そこには新しいものは何もないから。
毎日毎日、雪かき仕事@村上春樹を続けて、誇らしげにさあどうだ、と言われても多分感想なんて何もないのではないだろうか。
じゃあ、なんでこんなこと、一生懸命やってるんだろう。
毎日毎日、関連部署に謝って、日程を調節し、いろんな人のクレームに対応して、その結果がこれだよ、と。
言いたいことは、わかると思う。
この場は、そんなことを発表する場ではない、お前は間違った着地地点に到達している、ということなんだろう。
誰がやってもできる、というイメージは、果てしなく深い穴だ。
どうしようもなく不安になる。
AさんのやっているIという仕事は意味がないのか、BさんのやっているGという仕事は意味がないのか、そして。。。
今日の電話でも、共有できない意味がフワフワと浮いていたなあ。
それはこないだの、意味がないという意見と、同じ切れ味だったなあ。
俺が弱いからか。
またこんなこと書いてたら、損してるって言われるなあ。